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誕生~小学生時代
昭和50年12月10日、私は大和家具店の次男として生まれました。
次男の気質を十二分に備えた、甘えん坊で泣き虫な子供だったようです。 葵幼稚園、萩丘小学校へとすすみ、小学1年生の頃の夢は警察官になることでした。
ある日、母親に剣道場へ連れて行かれ「警察官になりたいなら剣道できた方がいいじゃない?」と言われた時、単純な私は思わず「じゃあやってみたい」と言ってしまいました。 そして、これが良くも悪くも人生の分かれ道でした。 野球だ、サッカーだと友達と毎日楽しく遊び歩いていたのが一転、週に3回の剣道の練習が入ってしまい、毎朝起きるたびに今日は剣道のある日かどうかを考えて憂鬱な気分になっていました。 通っていた道場は結構強いところだったので練習も厳しかった?のかもしれませんが、とにかく練習が嫌で小学校高学年になるまで泣いてばかりいました。 練習を終えて家に帰ると、テレビを見ている兄がいて(兄は剣道をしないと断ったので)いつもうらやましく思っていたのをよく覚えています。 何度も辞めたいと訴えましたが、両親に「一度決めたことは続けなさい」と説得され 嫌々ながらもなんとか小学校6年生まで剣道を続けることができました。 (今思えば送り迎えをしていた両親も教えてくれた先生方も大変だったでしょう・・。) ほぼ2軍選手だった僕は試合で活躍することはほとんどなかったのですが、一度だけ団体戦で準決勝まで勝ち進み銅メダルを獲得したことがあります。 その時、初めてもらったメダルはとても重たく、本当にうれしかったのをよく覚えています。 1つ思い出深い出来事がありました。 年末か正月に浜松市剣道連盟が1年間練習を休まなかった子供に皆勤賞の大きなトロフィーをくれる行事があったのですが、ある年、私はそれをどうしても欲しくなって「来年は絶対あのトロフィーをもらうぞ」と心に決めたのです。 その後の詳細はよく覚えていないのですが、気が付くと皆勤賞のトロフィーをもらっていたので、多分1年間ずっとその皆勤賞をもらうことに必死だったのだと思います。 自分の知らない自分を見つけたようで何か不思議な感覚でした。 6年間の剣道を通して「継続することの大切さ」と「本気になれば何でもできる」ということを学んだ気がします。 小学校での思い出は児童会活動をしていたことでしょうか。
仕事は、集会などのイベントを企画、運営したり、生徒代表であいさつしたりすることだったのですが、嫌ではなかったので、人前で何かやるのは割と好きだったような気がします。 児童会役員をやっていた影響か、最終的には小学校卒業時に模範的な生徒として表彰されたりしましたが、実は仕事をさぼって家に帰ってばかりで同じ役員の女の子に怒られていましたし、(今思うと本当にすみません・・。)ゲームセンターにいって先生につかまったりしていたので、あまり模範的な生徒ではありませんでした。 でもクラスをまとめるガキ大将で、真面目過ぎず、悪すぎないそんな生徒だったので先生方にはとてもよくかわいがってもらっていたような気がします。 今の私があるのは当時の先生方のおかげだと思っています。 本当に心から感謝しています。 中学生時代
中学生になり、地元の高台中学に進学しました。
小学校は歩いて1分の距離だったのですが、中学校は20~30分はかかる距離だったので毎日の通学がなかなか大変でした。 中学校から本格的な勉強が始まり、小学生の頃からガキ大将だった私はなんとなくテストもできるつもりでいたのですが、最初のテストの結果は散々で私も両親もとてもショックを受けたような気がします。 そこからは一生懸命がんばりはしたものの、まさにスタートはどん底状態でした。 中学校での勉強では「勉強して無駄なことなんて何もない」ということを学びました。 テスト勉強をしていると「これがもし明日テストにでなかったら時間を無駄にしているのではないか?」という不安がわいてくることがあります。 でも中学2年生の頃、もしテストに出なかったとしてその知識は必ず自分の力になるということに気が付きました。 「学んで無駄なことなんて何もない」 「努力して無駄なことなんて何もない」 というのがこのころからの私のポリシーでもあります。 文武両道を掲げる中学校だったので部活に入らなくてはならなかったのですが、そこで私が選んだのはなんと剣道部でした。あんなに嫌いだったのに・・。 習ったことのあるスポーツは剣道しかなかったのでほぼ他の選択肢はなかったような気がします。 高台中学の剣道部といえば今や誰もが知る強豪校らしいのですが、私がいたころの剣道部は本当に弱小でメンバーもそろわず練習はグダグダでした。 先輩との上下関係や練習内容などいろいろ悩んだこともありましたが、3年間継続できたことは良かったような気がします。 中学時代の私は多分同級生から真面目なイメージで見られていたと思います。
眼鏡もかけていましたし、自分で言うのもなんですが学校生活も勉強もそれなりに真面目にやっていたと思います。 3年生になり高校受験を迎えて私は受験勉強をはじめました。 その時の社会科の先生がある時言っていました。 「成績を上げたいならただひたすらに一生懸命勉強しなさい。集中力があるとかないとか関係ない。勉強をしただけ成績は伸びていく。」と。 当時の私にとってこれは衝撃的な言葉で、ここからただひたすらに一生懸命勉強するようになりました。 受験勉強モードに入ってからは、学校から家に帰ってご飯とトイレとお風呂以外はずーっと勉強していました。今思うと自分でもすごいなと思うのですが、高校受験に合格したいという思いと「勉強しただけ成績は伸びる」という言葉の影響だったのだと思います。 高校~浪人時代
必死の努力の甲斐があって何とか第一希望の静岡県立浜松北高に合格しました。 正直言って成績だけだったらそんなによくなかったので、やっぱりついていたのだと思っています。
私はそのころ本で読んだ「幸運の神様は努力している人に微笑んでくれる」という言葉を今でも信じています。 高校入学後はしばらく「燃え尽き症候群」を発症していました。 がんばって第一志望の高校へ入学したものの勉強に疲れてしまい、学校の授業でもぼーっとしていました。 うちの高校は自由な校風で有名なので、基本的に放任主義で特に厳しい授業もテストもありませんでした。そのかわり、その学校祭や運動会などの行事にかなり力を入れるところがあったので、私もそれにもれず学校行事に力を入れていました。 高校へは勉強をしに行くというより学校行事の準備をしに行っていました。すごく楽しかったのですが、勉強をまったくと言っていいほどしていなかったので後で痛い目にあいましたが・・。 部活はまた剣道部にはいりました。 ただ1年生の頃に運よく2段を取得したので、これを区切りに剣道から離れることにしました。 合計10年。今となってはいい思い出です。 自由な校風で、楽しい行事が続く高校生活も終わりが近づき受験の話が出てくるようになると、できるだけ考えないようにしていた成績と嫌でも向き合わなくてはいけない時期がやってきました。
その頃、同じ高校を出ていた兄が医大生になっていたので私もなんとなく「医者か歯医者になりたい」といってみました。 当時の担任の言葉は「医者や歯医者以外にも職業はあるから、それを考えてみた方がいいよ」でした。 高校3年間勉強もせずに遊んできたのでしょうがないという気持ちもありましたが、ただ自分で勉強してないことが分かっているのにこのままいける大学に行くのは嫌だったので周囲の反対を押し切って浪人することを決めました。 どこ大学に行くにしても精一杯勉強して自分が納得した形で進学したかったのです。 親の負担も考えず勝手な決断でしたが、これは私にとってどうしても譲れない決断だったのです。 浪人時代は正直言って必死でした。この1年がすべてだと思っていました。
甘えをなくすためにわがままいって地元浜松を離れ、名古屋河合塾の寮に入りました。 机とベッドしかない2畳ほどの部屋で塾の往復と部屋での勉強の毎日でした。 「継続することの大切さ」 「本気になれば何でもできる」 「学んで無駄なことなんて何もない」 「努力して無駄なことなんて何もない」 「勉強しただけ成績は伸びる」 「幸運の神様は努力している人に微笑んでくれる。」 大げさかもしれませんが今までの人生で学んできたことが私の支えになってくれました。 1年間ほとんどテレビを見たり遊びに行ったりしたことはありませんでした。名古屋に1年間住んでいましたが、塾のまわりのことしかほとんど知りません。 娯楽はほんの少しのラジオとマンガだけでした。とにかく必死でした。 そして、努力の甲斐あって何とか国立広島大学歯学部に合格しました。 正直言ってこれもついていました。夏期講習で個人的に選択して受講した講座の問題がちょうど大学入試に出たのです。 これが「幸運の神様は努力している人に微笑んでくれる。」ということなのでしょうか。 大学生時代
医療の道を選んだのは兄の影響もありますが、人に喜んでもらえる職業に就きたいと思ったからです。
特に自分が苦労してきた「歯」の専門家になれば患者の気持ちがわかりやすいとの考えで歯学部の道を選びました。 広島大学を選んだのは高校の修学旅行が広島だったのと瀬戸内海を挟んで向かいの愛媛県に親類がいるということ、そして浜松から新幹線一本で行けるということが理由なのですが、今になって思うと、広島には何か強い縁があったように感じます。 大学生活はとにかくすべてが楽しかったです。
その中でも特に思い出深いのは通称「オリキャン」と呼ばれる新入生歓迎のオリエンテーションイベントのスタッフをやっていたことです。 大学に入学したばかりの学生をまとめて宮島へキャンプに連れて行くのですが、医学部(医学科、薬学科、理学療法科、作業療法科、看護科)、歯学部合同なのですごい数の人をまとめないといけないのです。 そのため、何度も何度も会議や準備やシュミレーションを繰り返していました。 (その都度飲み会も繰り返していました。) そのキャンプに参加して楽しかったといってくれる人達が次の年のスタッフとして参加してくれるので、本当にどんどん輪が広がっていき楽しい時間を過ごすことができました。 私が1年目のスタッフ(新入生の班長)をやっていた時の班員の子が次の年のスタッフになって、その子の班員がその次の年のスタッフになると家系図のようにずっとつながっていくのです。 それが本当にうれしかったですし、「おざわファミリー」と呼ばれていたその後輩たちがいつも最高の笑顔を見せてくれていたのが本当にいい思い出です。 本当にたくさんの人に囲まれてめぐまれた時間を過ごさせてもらったと思っています。 とにかく大学生活は寝る間を惜しんでいろんなことにチャレンジしました。
オリキャン、テニスサークル、少林寺拳法、空手、アルバイト、もちろん勉強もしましたよ。 かけがえのない時間を過ごさせてもらったと思っています。そしてそれらすべてが今の私をつくってくれているのだと思っています。 大学時代に私を支え育ててくれた人たちに本当に心から感謝しています。 大学卒業、勤務医時代
大学卒業後、無事歯科医師国家試験に合格し、その後の進路にはかなり悩みましたが、 とにかくいい治療をしたいということだけは常に考えてきました。
そして、まず1年間研修医として大学病院で基礎をしっかり学び、その後、開業医で臨床を学ぶことを決めました。 一部歯科界に昔から続く「とりあえずやってみろ」的な治療をするのは絶対に嫌だったので、最初はとにかく教科書と模型で一生懸命勉強しました。 そして、準備万端治療に取り掛かったのですがここには大きな試練が待ち構えていました。 絶対にいい治療をしているつもりなのに患者さんからは 「前の先生の方がうまかった。痛い。時間がかかる。若い先生は嫌だ。」 ということが続いたのです。 ショックでした。なんでわかってもらえないんだろうと悩みました。 そして・・私は自分が自分のしたい治療を押し付けていることにやっと気づきました。 「いい治療というのはドクターだけが決めるものではないということ」を痛感しました。 私は今でも常にいい治療をしたいと思っています。 しかし、長年の経験を経て、いい治療というのは個々の患者さんとドクターの間に生まれるものだということを学びました。 1人のドクターとして、1つの病院として「私はこういう治療をしています」と表現することはとても大切なことだとは思いますが、あくまで実際の治療においては患者さんの個々の希望を十分に聞き、ドクターはそれらを踏まえたうえでプロフェッショナルとしての意見を提示し、そのうえで相談しながら治療方針を決定してく。 これが治療をすすめていく上で最も大事なことであると私は思っています。 その後、私は歯科医師として一生懸命、知識と技術の習得に励みました。 一般歯科、小児、矯正、口腔外科、インプラント、審美、歯周病、予防など多くを学んできました。 私は良き師にも恵まれ多くのことを経験させていただき、本当に充実した10年間を過ごさせてもらったと思っています。 特に力を入れてきたインプラントでは、患者さんの数は数百を超え多くの方に喜びの声をいただいていることを本当に誇りに思っています。 ただ、多くのことができるようになり、今一番感じることは「本当に上手な先生というのは、何でもできる先生ではなく治療のステップを一つ一つ確実に丁寧にこなすことができる先生である。」ということです。 私は日々の診療の中での常に反省と成長を意識して、多くのことを確実に丁寧に一つ一つこなすことのできるドクターになりたいと思っています。 開業は私にとって新しいチャレンジ。
長い文章にお付き合いいただき本当にありがとうございました。 院長の口腔内履歴
小学生のころの私はご飯よりも駄菓子が大好きで、ジュースやお菓子を頻繁にとっていたのでむし歯がいっぱいでした。
学校の歯科検診の時のむし歯の数を友人に自慢していたのを覚えています。 しっかり歯磨きをするように頻繁に両親に注意を受けていましたが、歯磨きをするより、歯ブラシを水で濡らして、歯磨き粉のキャップを外して歯磨きをしたかのように見せかけることに一生懸命でした。 そのうえ、歯医者はもちろん大嫌いで、治療に連れていかれては大泣きし、首を一生懸命動かして治療されないように頑張っていました。 「もう少し大きくなってから連れて来て下さい。(怒)」とよく言われたそうです。 そんな私が今や歯科医師になっているのですから自分でもなんか不思議です。 中学生になると、むし歯の数はだいぶ減ってきましたが歯並びがガタガタで見栄えが悪く、かみ合わせにも歪みが診られるようになっていました。 小学生のころから矯正治療はすすめられていましたが、その時は自分では特に歯並びを気にもしていませんでしたし、歯医者さんが嫌いだったのでずっと避けるようにしていました。 高校生になると、歯並びが悪いことがコンプレックスとなってしまいました。 大学生になり歯科医師の卵になった私は、授業で歯のことを学ぶたびに自分の口腔内状況を気にするようになりました。 そしてとうとう矯正治療を受けることを決断しました。 分析の結果、顎変形症と診断された私は外科手術を勧められましたが、これは拒絶し、従来の口腔内装置による治療を選択しました。 そして3年に渡る治療後、ようやく現在の歯並びを手にいれました。 (まだ治療中ですが・・) 現在はホワイトニングなどの新製品を自分で試しながら、自分の口の中をメインテナンス中です。 病院で患者さんから「歯医者さんは歯がいいの?」と聞かれることがありますが、私の場合はだいぶ苦労してきた経歴があるので自信をもって「私は歯がいいです」ということはできません。 しかし、その分患者さんの不安や痛みや悩みは理解できるつもりでいます。 ひとりで悩まずぜひ一度相談いただければきっと力になれることがあると思っています。 気兼ねせずにぜひ一言声をかけてください。 |
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